「一生懸命の姿勢が・・・」

                          身体障害者療護施設 カーサ・ミナノ 麸澤 孝

 私が、人の助けを借りなくては生きて行けなくなって、12年がたちます。当時、私は高校卒業寸前で、自分が「人の手を借りながら、これからの人生を生きて行く」という現実に、自分自身が受容できず、両親や友人、看護婦さんや主治医に冷たく当たってしまったことが、つい最近のことに感じます。
 受傷直後は意識はあるものの、横隔膜の動きが弱く何度も呼吸困難になり、何度も心臓が停止してみんなを心配させていました。そんな状態も約1ヵ月くらいで落ちつき、頚髄の固定手術を終えてから6人部屋に移り、それと同時に病院に住み込みの家政婦さんに、食事介助や清式などの日常の介助をお願いしました。当時は、まだ介助と言うより、介護の意識が強かったように思います。今から思えば、それが初めての私にとっての両親以外の介助であり、介助してもらう難しさを初めて知ることにもなりました。首を固定され上だけしか見えず、頚髄損傷による不安や痛みで、ある日突然「家政婦紹介所より派遣されて来ました」という60歳前後のおばさんに、精神状態が普通でない私の介助はとうてい無理があり「ありがとう」の一言も言った記憶がありません。それから数カ月後、群馬県の沢渡温泉病院にリハビリテーションを目的とし、家族から離れ入院生活を送ることになりました。しかし、それも「介助者(家政婦さん)と見えないかけひき」の毎日で、日に日に回復する皆さんの前で、一向に手足が動かない私は、寂しく不安で、家政婦さんと一言も話さない日さえありました。家政婦さん とちょっとしたことで、喧嘩になっても病室から逃げ出すこともできず、最後は頭を下げ介助を受けたこともあり、突然断りも無く帰ってしまった家政婦さんもいました。でも、こんな家政婦さんばかりではなく、私が元気がないと励ましてくれたり、自分の息子のように親身になって面倒を見てくれた家政婦さんもいました。私にとってこの8年間の病院生活が、介助の頼み方、タイミング、受ける姿勢など「介助を受ける難しさ」に挫折感を持った時期でもありました。日替わりのように介助者が変わり、一から十まで私の口だけで説明し、それをまた次の介助者に同じことを説明する。そのことが、動けない身体よりも苦痛に感じ、いろいろな制限がありながらも介助者の安定した「身体障害者療護施設」の入所を決めた一つでもありました。

 皆さんもご存知のとおり、療護施設というのはそう簡単に入所はできません。私も3年以上待ちました。もし「カーサ・ミナノ」が開所しなければ、いまだに入院生活を送っていたかもしれません。
 施設での生活ですが、日中は週3回の入浴、趣味であるパソコン通信や文書作成に時間を使い、パソコン・テレビ・ビデオ・電話など、マウススティックで操作できる位置にセットし、日中は電動車イスに乗り、食事・入浴など時間になりしだい自分でその場に行き、居室に帰ればテレビのスイッチを入れ、友人に電話をかけ、眠くなれば部屋の電気を消す。これら簡単な事ですが、入院生活が長く介助者に頼りきりであった、私にとって「自分の意志で自分でする」ということに満足していました。
 「カーサ・ミナノ」で受ける介助は、食事・排泄・入浴などの日常生活の介助から、フロッピーディスクの入れ替えまで多種多様にわたり、私が積極的に街へ出たり障害者団体に参加することで、病院生活に較べ身体的な介助よりも、外出の準備や手紙を封筒に入れ切手を貼るなどという、細かいお手伝い的な介助が増えてように思います。
 療護施設という特異な場所では、確かに職員室に行けば職員はいます。しかし、誰でも頼めるわけではなく「今、休憩中」と言われたり「係りが違う」と逃げられることもしばしばで、入居者が職員を捜すために施設内を走り回ることも日常茶飯事です。50人の入居者を日中の介助者が10人程度では、満足な介助が受けられるはずがありません。介助者が特定していると思われる、療護施設でもこのような問題がもあり、どこに行ってもしてもらうと言う弱い立場に変わりありません。
  
 私は数年前より、介助者無しで公共交通機関を利用し、都内へ出て障害者団体の集まりに参加したり、秋葉原へ買い物に行くようになりました。もちろん、手足の不自由な私は、電動車イスで動けるものの、切符を買うにしろ、尿を捨てるにしろ、その場面場面で介助を受けることになります。時には駅員さん、時には見ず知らずの男性の時もあります。電動車イスでひとり、ハンバーガーショップに入り「お持ち帰りですか」と聞かれ「手足が不自由なんで、食べさせて下さい」と、店内でお客さんの注目を浴びながら食べてきたことさえあります。初めて人に声をかけた時は、大変勇気が要ったことだけはよく覚えています。

 このように、受傷当時の急性期状態の看護から、病院・療護施設内での介護、外出時にボランティアの方にお手伝いしてもらう介助と、確かに私の場合、人間の手があって生きて来られたのかもしれません。手足の動かない私は、その介助の方法や手順をすべて口だけで説明し、指を差すことさえ出来ないのです。私の思ったとうりに行かずに、ついイライラすることも毎日のことです。
 療護施設での介助は、すべて時間ごとに介助に当たる職員が決まっていて、介助者を選ぶことは出来ません。しかし、私たちのように介助を受けるものにとって、同じ「お願いします。」なら、気持ち良く、丁寧に、すばやく、一生懸命、最後まで、してもらうのが理想です。そのように介助してもらえば、また同じ人に頼みたくなり、それは身体に障害を持っていない人も同じことで、同じ料金を払うのならサービスの良い店に行き、良い印象を受ければ「次も、その店に行こう」と思うのと同じことではないでしょうか?
 そして、私の頼んだ介助が思った通りの介助に終わらなかったり、別の人の助けを借りても、一生懸命やっている姿勢が見えると、介助を受ける側も大変嬉しいもので、逆に、物を探してもらう場合でも、よく探さずに初めから「無いみたい」なんて言われると「もっと良く探せ!!」なんて心の中で叫びたくなる時さえあります。このようにどんな介助であれ、介助が終わった状態よりも「介助を受けているその瞬間」が大切で、入浴や着替え、体位交換などの実際に介助者と受ける者の接触のある、身体的な介助に特に言えることで、乱暴に品物のように扱われるあの気持ちは、受けた者でないと分からなく、とても悔しく、自分の障害を改めて実感する時でもあります。
 介助というのは、好きな時に必要なだけ受けるのが理想で、介助を受ける私たちにとって、いつ、どんな場面に、必要になるか分かりません。物を落としてしまうこともありますし、長い間には夜中に失禁する時もあるでしょう。確かに、どんな緊急時にすぐ対応してくれる介助者が、そばにいてくれれば大変安心です。しかし、介助者が頼まれるのを待ってるかのように、私たちのそばにいられるのも大変不自然で落ちつかない気がします。そして、身体的な面や金銭的な面、交友関係など、介助者にはすべて面で私たちの生活が見えてしまいがちですが、私は日常生活の一部に自分一人の時間を持ち、難しいことですが自分自身のプライバシーを大切にし、外出時も介助者の方が介助だけに専念するのでは無く、お互いに楽しむということも心がけて行きたいと思っています。

 最後になりますが、私は95年・96年と、フィリピン・ルセナ市にある「グリーンライフ研究所」(日本人障害者の家)に行って来ました。そこでは女性のアテンダント(有償介助者)を雇い、排便からトランスファー、食事介助にいたる日常生活のすべてを介助してもらいました。英語を話せない私が、どこまで彼女の介助を受けられるか? 出発前から心配でしたが、私も知っている限りの単語を並べ、必死にこちらの要求を彼女に話し、彼女も必死に理解しようと聞いてくれ、ひとつの介助が終わると、「Thank you.」が自然に出て、彼女も覚え立ての日本語で「ドウイタシマシテ」 と、介助をお願いする方も、介助する方も、楽しい数日間を過ごすことができました。
 短い時間であったということもありますが、言葉の通じない者同士がこのように、良い関係での介助ができたということはこれから先、介助者に頼らなくては生きて行けない私にとって、大きな意味があったように思います。